現代 礼文島歴史散歩
縄文時代中期に最初に人が住み始めた礼文島の長い歴史の中でも、 比較的現代に近い江戸時代末期から明治時代の開拓草創期における先人たち足跡をはじめ、 時代を物語る資料・場所などを紹介します。
今井八九郎測量図
今井八九郎の測量図
今井八九郎は松前藩士で、蝦夷地全域を測量して地図を作成した人物です。
間宮林蔵の蝦夷地測量に同行して測量技術を学び、19世紀前半(文政~文化年間)に蝦夷本島や離島、
歯舞・色丹諸島や樺太南部の沿岸測量を行い、精度の高い地図を作成しました。
北見国之内御支配所礼文宗谷枝幸三郡之絵図
金沢藩支配下の北見国絵図
明治2年、蝦夷地に開拓使が置かれ、名称が北海道と変わるとともに、道内全域に11の国と86の郡が設定されました。
礼文島は、礼文郡として利尻郡・宗谷郡・枝幸郡と併せて北見国に含まれました。
この内、開拓使が直接統治することができなかった、礼文郡・宗谷郡・枝幸郡の3郡は、金沢藩が治めることになりました。
しかし、翌明治3年には、支配を返上しまい、たった1年間だけの統治となりました。
開拓使賞状
柳谷万之助宛開拓使賞状
礼文島移住者第1号と言われる青森県人柳谷万之助にまつわる唯一の資料です。
内容は、病院建設に多額の寄付をしたことを賞して木杯等を授与するというものです。
島の生活基盤を整備するため、漁業や商業等で成功を収めた人々が大きく貢献してきたことがわかります。
元地柳谷卯之吉漁場
イレジュウ柳谷卯之吉
柳谷卯之吉は、礼文島移住者第1号と言われる柳谷万之助の次男で、長男善太郎とともに父を助け、
善太郎が家督を継いだことを契機に独立し、元地に漁場を開きました。
イレジュウとは屋号で、入の下に十と表現します。
現在、桃岩荘ユースホステルがある場所が漁場のあった場所であり、桃岩荘はもともと番屋だったものを改装したものです。
柳谷文蔵
カネナカ柳谷文蔵
柳谷文蔵は、青森県津軽群三厩村出身で、明治時代初頭に礼文島へ渡り、尺忍地区の漁場に従事した後、
明治4年に元地(現在のメノウ浜一帯)に漁場を開きました。カネナカとは屋号のことです。
漁家としての柳谷文蔵は3代続き、2代目文蔵の時代には7箇所の漁場を持つ島内きっての大漁業家となりました。
写真は初代文蔵です。
おたる丸
小樽利礼航路
明治18年、前年に開設された小樽~増毛航路が利尻・礼文に延長されたことが、礼文島における近代航路の始まりです。
平成5年に航路が廃止されるまでの100年以上にわたり、経済・産業・教育・文化など、
島のあらゆる分野において大きな役割を果たしてきた航路です。写真は、航路廃止時に運航していたおたる丸です。
第ニ東洋丸
稚内利礼航路
稚内と利尻・礼文を結ぶ航路は、昭和9年に北日本汽船による運航がその始まりです。
大正末期までに稚内まで鉄道が開設されたこと、日露戦争によって日本が得た南樺太と稚内を結ぶ航路ができたことなど、
稚内に人や物が集まるようになってきたことが航路開設の契機となりました。
写真は最初に就航した第二東洋丸です。
厳島神社奉納船絵馬
船絵馬
写真の絵馬は、厳島神社に奉納された絵馬の1つで、船の絵が描かれているものを特に船絵馬と称します。
奉納者は讃岐国(徳島県)の岡松喜三郎という人物で明治25年に奉納されました。
当時の弁財船と呼ばれる船を描いたもので、
江戸時代より明治中ごろまで北海道と本州の日本海・瀬戸内海を行き来したいわゆる北前船です。
礼文神社狛犬
島内最古の狛犬
狛犬とは、神社や寺社を守る役割を持つ想像上の動物です。
主に拝殿前や参道脇に2個1組で、向かい合う様に置かれるのが一般的です。
この狛犬は、礼文神社に置かれているもので、明治38年に越前国(福井県)の本藤茂助という人物が奉納したものです。
礼文神社創建間もないころに奉納されたもので、島内で最も古い年代の貴重な狛犬です。
船泊湾沿岸監視哨跡地
船泊湾沿岸における戦争の名残
礼文島は明治時代以降、日本列島の北端において大国ロシア(ソ連)と向き合う最前線の場所でした。
日露戦争時には、バルチック艦隊の監視のため、須古頓岬付近に特設の見張所が設置され、
海軍の監視部隊が配置されました。
この場所は、太平洋戦争中の昭和16年にも海軍監視哨として利用されます(黄色〇部分)。
また、昭和16年には、民間人勤務による神崎防空監視哨(赤色〇部分)の設置、
昭和17年には金田ノ岬(橙色〇部分)に陸軍監視哨が置かれ、監視部隊が配置されました。