近代
礼文島のニシン漁
特徴
礼文島におけるニシン漁に大きな役割を果たしたのが青森県人、特に津軽地方の人々です。
移住者第1号と言われる柳谷万之助は、津軽郡三厩村(現在の外ヶ浜町三厩地区)出身の人で、
弘化3年に礼文島へ渡り、漁場の開発に取り組みました。
以降、直系の子孫や親戚縁者を含め、礼文島の柳谷一族宗家として漁場開発の中心的な人物となります。
他にも礼文王と呼ばれた駒谷三蔵、今の津軽町地区に居住して津軽町という地名の付けた三浦一族など、
津軽地方からの移住者によって、礼文島のニシン漁は大いに発展していきました。
沖合で捕れたニシンは、沖で船に積まれて運ばれてくるか、網ごと引っ張られて運ばれてきます。
この網を袋網といい、袋網を一時的に置く場所を袋㵎(ふくろま)といいます。
袋網からニシンを取り出し、陸揚げします。
陸揚げされたニシンは、タモと呼ばれる柄の付いた網によって、
運び手が背負うモッコと呼ばれる木製の背負い箱に入れられます。
モッコがニシンで一杯になると、運び手が一時的な保管場所へと運んでいきます。
モッコの運び手は、納坪(なつぼ)と呼ばれる場所にニシンを次々に置いていきます。
細い丸太とムシロで簡易的に作られる納坪は、漁期の間のみ建てられる臨時の保管場所です。
納坪のそばでは、手伝いの女性たちがニシンつぶしの作業を行います。
つぶしとは、内蔵やエラなどを取り除き、カズノコや白子を取り出して別ける一連の作業のことを指します。
高価であったカズノコは、テッコと呼ばれる四角い専用の箱に入れられます。
つぶしたニシンなどは、乾燥させて食用とするため、丸太を組んだ専用の干し場へと運ばれます。
つぶさずに干したものを丸干ニシン、腹を開き内蔵を取ったものを開きニシン、
背部を3片に割き、肉厚の部分のみを干すものを身欠きニシンといいます。
加工されないニシンや、つぶして残った頭やエラ、白子、骨が多い腹部分は、肥料とするため、
まずは大きな釜で茹でられます。これを取り出し、古くは木製の角胴(その後は鉄製の搾胴)に入れ、
水と油を絞り出します。なお、油はさらに水から分離させ、ニシン油という製品として出荷します。
水と油を絞ったニシンの塊は、そのままでは大きくて運びづらいため、いくつかに切り分けて干し場へ運びます。
干し場では、ムシロの上に切り分けた塊を砕いて広げ、時々かき混ぜたりして十分に乾燥させます。
十分に乾燥したニシンは、身欠きであれば22本程度を1束としてまとめられ、さらに24束をまとめて建ムシロに詰めて出荷します。
丸干しや開きも、一定の数量毎にまとめられ、出荷されます。
十分に乾燥させたニシン粕は、90㎏程度の量が建ムシロに詰められ、出荷されます。
ちなみに、元地の柳谷文蔵漁場の記録によれば、大正5年に3,271本という出荷量が最高の記録です。